「ジェノスラ!」
大司教様の一撃に穿たれ、水溜まりのように床に広がるジェノスラに駆け寄る。普通の魔物なら即死どころか消し炭になって死体も残らないような一撃。
心臓が高鳴る。血の気が引いていく。
俺は恐る恐る銀色の液体に手をやり――そして胸をなでおろした。地面に広がった銀色の液体が波打つ。大丈夫。核は逸れていたらしい。生きている。
しかし大怪我には違いない。この状態では……大司教様相手ではなおさら。
「私は大丈夫だから逃げなさい」
小声で言うと、ジェノスラは水が地面に染み込むようにして消えていった。
ジェノスラはきっと大丈夫だ。人間に捕まるようなヘマはしない。心配なのはむしろ。
「待ってくれ!」
出会い頭の一撃に怯みながらも、悪魔神官が両腕を上げて声を張る。
「敵意は無いんだ。話をさせてほしい。魔物と人類の未来のために」
「私からもお願いします大司教様!」
悪魔神官の隣に歩み出てきたのはクルトさんだ。
懇願するような視線を大司教様に向ける。
「この通り魔物たちは私を受け入れてくれています。ご覧ください。娘もこんなに大きくなりました。ほら、アラーニェ。挨拶を」
クルトさんがそういってアラーニェに駆け寄り、肩を抱く。
アラーニェ本人は、虚弱と言い捨てていた人間の放った強烈な魔法の衝撃からまだ立ち直れていないらしい。呆然と大司教様を見上げている。
「そうですか。まさかとは思いましたが、子供が」
魔物と人間の愛の結晶を前に、大司教様は目を細めた。
「おぞましい」
風を切る音。放たれた点がみるみるうちに大きくなる。
弓兵が放った一本の矢は速度を増しながら空を切り裂き、アラーニェめがけて飛んでくる。突然向けられた鋭い言葉と敵意にアラーニェはいつもの俊敏さを発揮できない。
矢が迫る。アラーニェは動かない。ダメだ、間に合わない!
「ッ!」
飛び散る赤。鼻腔を突く嗅ぎなれた匂い。
貫いた矢の衝撃のまま地面に転がるのは、身を挺して娘を守った父親の鑑。
「あ……お父……さん……?」
広がっていく血の絨毯にアラーニェがへたり込む。
呆然とする彼女の頬を、クルトさんは血塗れの手で撫でる。苦痛に顔を歪めながら、しかし心の底から安堵したように息を吐く。
「怪我はなかったか?」
「お父さんッ!」
アラーニェの悲鳴が響く。
呆然と立ちすくむ悪魔神官。彼に手綱を握られた狼が嘲笑うように吠える。
「見ろ! あれが人間だ。共存などできるはずない!」
「黙れ! おい、クルト!」
我に返った悪魔神官が負傷したクルトさんに駆け寄っていき、肩に突き刺さった矢を力任せに引き抜いた。呻き声と共に血が噴き出す。まずい。出血が一層酷くなった。
血の気が引いていく。久々の感覚。忘れかけていた。自分以外の人間が死ぬことへの恐怖。
クルトさんは勇者ではない。死んでも蘇生ができない。神の加護を受けていないその体はたった二リットルの出血で死に至る。今、彼はどれくらい血を失った?
すぐに治療しなければ。とにかく止血を。
が、駆け出そうとした俺の神官服の裾を何かが掴む。
「ユリウス神官、こちらへ」
「もう大丈夫です!」
教会の兵士だ。俺の両脇を抱え、ずるずるとアラーニェたちから遠ざかっていく。
魔物たちは回復魔法が苦手だ。道具はない。薬草もない。
ダメだ。このままじゃクルトさんは。
……いや。いるじゃないか。見込みがありそうなのが。
「その二本の腕はなんのためについているんですか!」
アラーニェがハッとして顔を上げる。
彼女には人の血が流れている。それも神官の娘だ。素質はある。やり方なら見せただろ?
八つの目から流れた涙でぐしゃぐしゃの顔を拭う。背筋を伸ばしたアラーニェが倒れ伏したクルトさんに向き合った。忌み嫌っていた二本の手を、疎んでいたはずの父に伸ばす。
傷口を包む弱々しい光。たどたどしい手付き。決して手際が良いとは言えない回復魔法。初心者なのだから仕方がないとはいえ、神官学校の実技試験だったら落第ものだ。
しかし娘に甘いクルトさんの体は、アラーニェのお粗末な回復魔法にはなまるを与えた。
「血が止まった!」
悪魔神官が歓声を上げる。
アラーニェは息を弾ませながら自分の両腕をジッと見る。やがて顔を上げ、こちらに視線を向けた。涙に濡れた顔に微かな笑みを浮かべる。
俺も思わず笑みをこぼす。どうやら貧弱で繊細な二本の腕の使い方を学べたようだな。
が、呑気に喜んでいる場合じゃない。
弓兵たちが次の矢を構える。大司教様が優雅に杖を構え直す。
「貴様らと内通していた裏切り者は処刑した」
……は?
俺は呆然と大司教様を見上げる。王都から物資を運び、情報と引き換えにそれらを魔王城に送り込んでいた“裏切り者”は貴方のはずだ。
大司教様の神官服が風にはためく。雲の切れ間から射し込む光がスポットライトのごとく彼を照らし出す。
世界のすべてを味方につけたような。完璧すぎて人工的な匂いすら感じる舞台の上で。大司教様は高らかに宣言した。
「女神様に誓って、我々は必ずや貴様らを根絶やしにする」
狼が狂ったように吠える。聞くに耐えない言葉で人類への怨嗟の声を撒き散らす。
決定的な決裂だ。交渉の余地などない。
クルトさんを抱え、吠え散らす狼のリードを半ば引きずるようにし、悪魔神官たちは坑道を引き返していく。
小さくなっていく彼らを眺めながら、そして大司教様は次にこちらへ視線を向けた。
「思ったより早い帰還でしたね」
兵士たちに引きずられるようにして連行されてきた俺に大司教様はそう言って微笑みかけてくる。
思わず背筋を伸ばした。成り行きとはいえ魔王城の魔物たちと一緒にいるところを見られた。攫われただけなのに休暇扱いされたのは納得いかないが。
射抜かれたクルトさんの残した血だまりを横目で見る。俺はああならないでいられるだろうか。
しかし大司教様は弓兵たちを下がらせながらにこやかに言う。
「ユリウス君は本当に勇者たちから慕われていますね。あなたを助けるんだと言って、彼らはかつてないやる気を見せています。こんなことならわざわざ姫を攫わせるまでもなかった」
良かった。処刑回避できたっぽい。人徳だな。
……あれ? 今サラッと凄いこと言わなかった? 姫を攫わせたって言った?
大司教様が顔を上げる。そびえたつフランメ火山を見上げ、眩しそうに目を細める。
「火山の向こうがどうして最近まで人類未踏の地だったか分かりますか?」
そりゃあ、縄張り意識の強い荒れ地の魔族と魔物が占領しているからだろう。
しかし俺の返答に大司教様は笑顔で首を横に振った。魔王城の魔物たちが消えていった坑道に視線をやる。
「正面から火山を超えなくても、あちら側へ行く方法はいくらでもある。魔物たちは実際そうしていた。じゃあなぜ人間はそうしなかったのか。そうまでして魔王城へ乗り込み、魔王を倒すメリットがないからです。少なくとも国はそう判断している」
国の中枢と教会本部があるのは王都だ。あのあたりに生息する魔物は数も少なく、野犬程度の危険度しかない。魔王城の魔物による被害など王都の人間は気にもしていないだろう。わざわざ莫大な資金を出すメリットがないと判断されるのは当然だ。
「なので私は考えました。目先の利益を超えて人を動かすもの――それは“憎悪”」
思わず息を呑んだ。
物資を餌に魔物を操って姫を攫わせ、魔物に対する人類の憎悪を煽った?
いや、それだけじゃない。
先程のやりとりで魔物と人類の対立は決定的なものとなった。魔王城への食料や物資の供給はここで完全に絶たれることになるだろう。今更土の中の虫を食うような生活に彼らは戻れない。突如飢えに苦しむことになる魔物たちが怒りの矛先を向けるのは、きっと人類だ。
「戦争でも起こしたいんですか」
「少し違います」
大司教様が目を細める。
「私は人類に完全な勝利をもたらしたい。そのためには穴蔵に籠った敵を引きずり出すと同時に、勇者たちの戦力を高めなければならない」
スッとしゃがみ込み、俺の顔を覗き込む。
大司教様の仰々しい杖が輝きを帯びる。
「“魔物たちにやられました”。そう言ってユリウス君の首を見せたら勇者たちはもっと憎悪を抱いてくれるでしょうか。もっともっと頑張ってくれるでしょうか」
汗が滲む。背筋が凍る。
俺は引きつる顔に無理矢理笑みを浮かべ、上擦った声で冗談めかした台詞を吐く。
「わ、私にそこまでの価値はありませんよ……?」
大司教様は答えない。薄ら笑いを浮かべたままジッとこちらを見ている。観察するように。値踏みするように。
分かった。これじゃダメだな。方向を変えよう。俺は弾かれたように立ち上がる。
「嘘です! 私にそこまでの価値はあります。いや、それ以上の価値がある!」
「ほう。言いますね」
珍獣でも見るような目を向けながら大司教様が呟く。
そりゃあ言うさ。生死を掛けたプレゼンタイムだ。
俺は胸を張り、唇を湿らせ、さらに続ける。
「勇者が自分の命を顧みず戦えるのは信頼のおける神官がいるから。“人類に勝利をもたらしたい”? なら私の力は欠かせないはずです。火に飛び込んでいく虫のような彼らを甲斐甲斐しく蘇生できるのは私だけですから!」
「……虫ですか。女神から加護を賜り、魔族と戦う使命を負った彼らを、虫と」
やっべぇ! 失敗した!
俺は慌てて口をつぐむ。しかし一度口から出た言葉を飲み込む術はない。
大司教様が俯く。杖を強く握り、肩を震わせる。
俺の体も同じく震える。反射的に首に手をやる。大丈夫、まだ繋がっている。しかし次の瞬間はどうだろう。ジェノスラを帰らせたのは早計だった。やっぱりずっと魔王城でぬくぬく暮らしていればよかった。後悔が走馬灯のように頭の中を駆け巡る。
大司教様が弾かれたように顔を上げる。その顔に浮かんでいるのは――笑顔。今までの人工的なそれとは違う自然な、どこか下手くそな笑み。堪えきれないとばかりに噴き出しながら目に浮かんだ涙を拭う。
「ははは。なるほど、そうですか。そうですね。うん。彼らは本当に無茶なことをやります」
大司教様にもなにやら思うところがあるのだろうか。
懐かしそうに目を細めながら、ここではないどこかに思いを馳せているようだった。そして一通り笑い終えると、大司教様は「ふーっ」と息を吐いて一緒に血も吐いた。
「えっ」
思わず唖然とする。
大司教様の胸を貫いた短剣を中心に、真っ白な神官服にじわりと血が滲んでいく。血まみれのカーペットの掃除をサボった時のようなすえた臭いが鼻をつく。
彼の背中から顔を覗かせたのは、見慣れた顔に見たことない表情を浮かべた旧友。助けてくれた? いや、ヤツは俺のことなんか見ちゃいない。
ああ、そうか。これが“憎悪”。
疲れの刻まれた顔に狂気の笑みを浮かべ、上司に短剣を突き刺したルッツが囁くように言う。
「俺が引導を渡してあげますよ。大司教様ァ」