大司教様の長い昔話が終わった。
ヒトに化けた魔物、不死身のバケモノ――
俺の立てた大司教様の正体に関する予想はどれも大外れだった。
魔王を退けた勇者。神の祝福を受け、奇跡を授かった英雄。
それが、どうしてこんなことに。
その身に受けた奇跡は肉体と魂を縛り付け、“諦め”や“死”という逃げ道を塞ぐ呪いと化している。
「せっかく平和にした世界を壊すのは、仲間との旅を否定することではありませんか」
言いながら、しかし自分の言葉の薄さに辟易する。
何百年も後悔を抱え続けて、まだ根に持っているような人間だ。今更俺の言葉程度でどうにかなるようなら苦労はしない。
大司教様は人工的な笑みを浮かべて頷く。
「確かにそうかもしれません」
……え?
大司教様が立ち上がる。机に立てかけた大仰な杖を手に取る。
「じゃあ行きましょうか」
「どこへですか」
俺の疑問に、大司教様はさも当然であるかのように言い放った。
「もちろん見に行くんですよ。私たちが必死になって守ったこの世界と後輩たちを」
*****
大司教様について図書館を出た。
世界とか大袈裟なことを言うからなにかと思ったが、普通に街に出ただけだ。向かったのは市場。
一体どういうつもりだ。なにをしようとしているんだ。
俺の警戒を知ってか知らずか、大司教様は辺りを見回して目を細める。
「活気がありますね。こんなにもたくさんの勇者が集まる街というのは私の時代にはなかった」
人ごみを行きながら、大司教様は大通りの両端を囲むように並ぶ屋台には目もくれずに歩いていく。
なにか目的があって歩いているのか? どこへ向かっている?
俺が業を煮やして行き先を尋ねるよりも早く大司教様が足を止めた。
その視線の先には。
「どうしてそんなに意地を張るんだ」
人の行き交う大通りの中でひと際目を引く男。
勇者だらけのこの街ではそうお目にかかれない上等な上着を翻し、端正な顔を怒りで歪める。しかし俺は気付いた。その瞳に隠しきれない悲しみが浮かんでいることを。
「僕はそんなにおかしなことを言っているかな……?」
唇を震わせ、目の前の人間を呆然と見下ろす。
自分の主張が受け入れられない事に酷く困惑しているようだ。顔を背け、悲しみを堪えるように唇を噛む。肩を震わせる。
右手に持ったピンクのワンピースと左手に持った金槌を掲げ、慟哭する。
「女児服を着て鈍器で頭をぶん殴ってくれと言っているだけなのに!」
俺は頭を抱えた。
最悪だ……今一番会いたくない人間に会ってしまった。ハンバートだ。関わり合いにならないでおこう。
俺は足早に通り過ぎようとするが、大司教様は動かない。
「大司教様?」
「ユリウス君、私の話を覚えていますか。伝説の勇者――戦士がなにに女神から賜った“永遠”の権利を使ったか」
大司教様の不老不死の誘いを断り、三人の仲間たちはそれぞれ別の願いを叶えた。
俺は大司教様の言葉を思い返す。
『郷里に戻り幼馴染と結婚した戦士は子孫たちの永遠の健康を願った。子供たちが健やかに自由な道を歩けるようにと』
大司教様が人工的な笑みを浮かべてハンバートを指差す。
「彼が戦士の子孫です」
愕然とした。
錆びついた歯車のような動きで大司教様からハンバートに顔を向ける。
“子孫たちの永遠の健康”――ヤツの凄まじい回復力の正体がそれだというのか?
大司教様の不老不死の誘いをふいにして叶えた願い。いくつも世代を超え、受け継がれた伝説の勇者の願いは今、マゾのロリコンというモンスターを生み出していた。
「“健やかに自由な道を歩けるように”。どうやら彼の願いは見事叶ったようですね」
感情のこもっていない大司教様の言葉に、俺は思わず天を仰ぐ。
涙が零れないように。この人に同情してしまわないように。
皮肉なことに、ハンバートはご先祖様の望み通りすごく自由な道を歩んでいる――健やかかはともかく。
いや、そんな場合じゃない。これ以上大司教様にこの街の醜態を見せるわけにはいかない。フェーゲフォイアーが魔物の餌にするにはもったいない街であると示さねばならない。
俺は二人の間に割って入り、ハンバートを制止する。
「殺人教唆はやめなさい! 相手は子供なんですよ」
「僕は大丈夫ですよ」
ハンバートに絡まれている哀れな被害者はロンドである。
マゾのロリコンに女児服と金槌を突きつけられながら、ロンドは気丈に笑ってみせる。
ロンドは王族――つまり、彼もまた伝説の勇者の一人である剣士の子孫にあたる。
幼いながらも、領主として立派に務めを果たしている。その姿を見れば大司教様も考えを改めてくれるかも。
本人も知らないうちに俺の多大な期待をその小さな双肩に負ったロンドが無邪気な笑みを浮かべて言う。
「そんなに死にたいなら望み通り殺してあげます」
……は?
ふいに辺りが暗くなる。強い風が道端の砂塵を巻き上げ、思わず目を細める。恐る恐る顔を上げる。鱗に覆われた巨体。首に巻かれた大きなリボン。かつて生贄を要求し、いたいけな村娘を食い殺す怪物であったドラゴン。その威厳はどこにもなく、つぶらな目の奥に広がるのはどこまでも深い闇と諦め。
訓練された動きで降り立った哀れな竜がハンバートと対峙する。
ドラゴンの白い腹を撫でながら、ロンドが無邪気な声を上げて指をさす。
「僕の可愛いドラゴンの血となり肉となるです!」
ドラゴンの口が糸を引きながら裂けるように開く。唾液に濡れて光る凶悪な牙。本能的な恐怖に逆らえず腰が引ける。それはマゾのロリコンであるハンバートの顔から余裕ぶった笑みを引き剥がした。
水を浴びせられたような虚無の表情で、突き出すように手のひらを向ける。
「あ、ドラゴンはちょっと」
性癖の闇鍋も、流石にデカい爬虫類は無理だった。
しかしドラゴンはエサの性癖など気にもしていない。一切の慈悲も躊躇も情緒もなく、頭からバリバリとハンバートを食い殺す。お食事終了。ごちそうさまでした。
……おや? どうやらごちそうさまの合図には早かったらしい。ドラゴンの腹を撫でながらロンドがこちらに視線を向ける。満面の笑みを浮かべて言った。
「おかえりなさいユリウス神官。ドラゴンもあなたの帰りを待ちわびていました」
俺は弾かれたように辺りを見回す。
巨大なドラゴンが突如降り立ったというのに、街に混乱は一切見られない。市場で商いをしていたはずの商人たちは百戦錬磨の避難によりこの短時間で店を畳み影も形も見えなくなった。
かわりにのそのそと集まって来たのはドラゴンの餌こと勇者諸君。度重なる死と蘇生のサイクルにより本能的恐怖という生命維持に極めて重要な感情をぶっ壊してしまった哀れな“現代の英雄”たちは舌なめずりをしながら各々の得物に手をかける。
ロンドがカッと目を見開く。
「勇者食べ放題です!」
勇者たちが鬨の声を上げながら得物を手に駆けだす。
「竜の牙獲得チャレンジ到来だ!」
もはやドラゴンの命を獲得することは完全に諦めているらしい。
高く売れる希少素材を持つバケモノを前に、色めきだった勇者たちが突っ込んでは食われ、突っ込んでは食われ。口の中に飛び込んでいるようにすら見える。いや、口の中に飛び込んでいるのか。そうしないと牙が採れないからな……
大暴れするドラゴンを前に、ロンドは満足そうにうなずいた。
「この調子ならドラゴンに乗って姉様を連れ出す日も遠くありません。その時は王都に攻め入り、僕と姉様を離れ離れにさせた兄様と家来たちの首をもぎ取ってドラゴンのオヤツにしてあげるです」
今まさに新しい世代の魔王の誕生を目の当たりにしているのではあるまいか……
俺は今日の安らかな睡眠を諦めながらさめざめ泣いた。
大司教様はというと、かつての仲間の子孫を前にハイライトに乏しい目を眩しそうに細める。
「“王となった剣士は国家の永遠の繁栄を願った。国が強くなればもう二度と魔物には負けないからと”――親の心子知らずとはこのことですね」
俺はさらに激しく泣いた。大司教様が可哀想でならなかった。
繰り広げられるドラゴンのお食事を眺めながらさらに大司教様が呟く。正直もう喋ってほしくなかった。これ以上この人を可哀想に思いたくなかった。しかし大司教様は口を開く。目の前の惨劇に眉一つ動かさず。しかし静かな怒りを感じさせる声で。
「今や勇者は単なる職業となり、彼らは女神の奇跡を私利私欲のため使うようになった。彼らは思い出すべきです。自らの務めとその在り方を」
俺は反論しようとして、しかし言葉が見つからず口を閉ざした。
マジでその通りだな……。そう思ってしまったから。
「神官様! カタリナが死にました~!」
聞きなれた声。千回聞いた言葉。オリヴィエだ。背中に棺桶を引き連れて俺に蘇生を求めてくる。
ここは教会じゃないから蘇生しません。残念でしたーと言って棺桶を蹴り飛ばしてやりたいところだが、上司がすぐそこにいるので俺は渋々カタリナを蘇生した。
起き上がったカタリナが、本人の体の損壊具合からは考えられないくらい傷一つない杖を手に意気揚々と言う。
「よーし、さっきは油断しちゃいましたが今度こそ!」
カタリナが杖を掲げる。俺は大司教様の言葉を思い出していた。
『魔導師は自らの杖に永遠を与えた。いつか杖を受け継いだ誰かが何にも縛られず冒険に出られるようにと』
伝説の勇者の願いにより、不滅となった暴食の杖。しかし願いとは裏腹にその杖は日の光に当たることすら許されず、貴重な宝として長い長い時間を宝箱の中で過ごしてきた。
しかし今はどうか。
決して優秀とは言えない初心者勇者だったカタリナを、あの杖は支え、見守り、そして助けてきた。大司教様の誘いを断り、杖に永遠を与えた伝説の勇者がカタリナを見たらなんと思うだろう。きっと悪い気はしないんじゃないだろうか。
眩い光が辺り一面を白く塗りつぶす。強い光に目が眩む。俺も、勇者たちも、ドラゴンも、そして術者のカタリナ自身でさえも。
「ま、眩しっ……うわ~!」
情けない悲鳴と共に轟音が鼓膜を打ち鳴らす。
眩しさのせいで狙いを外した強大な一撃は、見事仲間の勇者たちを消し炭にした。輝く光となって消えていく勇者を目の当たりにしながら杖を抱えてヘラリと笑う。
「すみません。つい力んじゃいました」
コイツ……
思わず怒りに拳を震わせる。なにヘラヘラしてんだぶっ殺すぞ。
オリヴィエも頭痛を堪えるように額に手を当て、もう片方の手をカタリナの肩に置いて首を横に振った。
「カタリナの魔法は街中で使うには危なすぎるよ。ドラゴンは諦めて外へ冒険に出よう」
「じゃあ久々にルラック洞窟へ行こう! そろそろリエールが帰ってくるから、シーサーペントでも獲ってご馳走の準備しないと」
カタリナの言葉にオリヴィエが怪訝な顔をする。
「シーサーペントってウミヘビみたいな魔物でしょ。食べれるの?」
「食べれるよ。ゴムみたいに固くて噛み切れないんだって」
「なんだよそれ……道具屋でゴム買って一人で噛んでろよ……」
言い合う二人を大司教様はジッと見つめている。いや、見ているのはカタリナの杖か。
大司教様が静かにカタリナに歩み寄る。平坦な声で尋ねる。
「その杖に相応しい冒険はできていますか?」
突然の問いにカタリナは怪訝な顔をした。
意図が分からない質問を受け、顎に手を添えて考えることしばし。カタリナはパッと人懐っこい笑みを浮かべて言う。
「相応しいとかは分かりませんけど、楽しいです!」
大司教様の顔から表情が消えた。薄笑いを浮かべた仮面が剥がれたようだった。
それに気付かず、カタリナとオリヴィエは駆けていく。まさか教会のトップであり、魔王を退けた伝説の勇者であり、不老不死の肉体を手に入れた大司教様が自分たちを死ぬほどに羨んでいることも知らず。
あぁ、色々と理屈をこね回していたが。大司教様は勇者の務めだとか使命だとか、本当はきっとどうでも良いのだ。魔王を倒すことも。人類が完璧な勝利を勝ち取ることも。
なにかに縋らずにはいられないんだろう。本当に欲しいものはもうどうやっても取り戻せないから。
「結局、貴方はまた仲間たちと冒険をしたかっただけなのではありませんか?」
小さくなっていく二人の背中を眺めながら、俺は呟く。消え入りそうな声で続ける。
「こんなことをしても……もう……」
ほとんど見えなくなったカタリナたちから視線を切り、大司教様がこちらに向き直る。
その顔にはいつもの空虚な微笑みが戻っていた。
地位、名誉、金。そのどれも大司教様の心の隙間を埋めるには至らなかった。長い長い時間すら大司教様の後悔を癒せなかった。
彼の苦しみを理解できる人間はいない。感情を共有できる人間はいない。彼を止められる人間もいない。彼が本当に求めてやまないものは、もはやこの世のどこを探してもない。
きっと行き場のない後悔と悲しみを別のものに変換し、ぶつけているだけなのだ。
なんて身勝手なんだ。これじゃあ子供が駄々をこねているのと同じじゃないか。
そんな憤りが湧き出てくると同時に――俺には彼が心底可哀想に思えてならなかった。