歳をとるごとに時の流れが早くなってくるという話。
子供のころは聞き流していたが最近は痛いほど実感する。
まだ人生の前半戦だというのにこれだ。もっともっと歳を取ったら一体どうなってしまうのか。瞬きしている一瞬のうちに一日が過ぎ、あっという間に人生なんて終わってしまうんじゃなかろうか。
ましてや、人知を超えた長い時を生きている大司教様の時間の感覚など想像もつかない。
「久しぶりですねアマリリス。変わりないようでなによりです」
「はぁ?」
フェーゲフォイアーの大通りに構えた宿屋の前。
大司教様の言葉に答えたのは不良娘リリーである。
アマリリスは宿屋のババア――つまり彼女の祖母の名だ。元勇者だから大司教様と面識があってもおかしくはないが、ババアがリリーと同じ年頃だったのはどう少なく見積もっても五十年以上前である。
「なんだよ……アンタも白骨状態で埋められてたクチか……?」
メルンという前例があるからだろう。リリーは気味悪そうに腕を擦りながら、さっさと宿屋の中へ入っていってしまった。
大司教様にとってもああいった勘違いはそれほど珍しいことではないのかもしれない。さして気にもしない様子だ。不意に視線を動かす。とても勇者を魔物のオヤツにしようと画策しているとは思えない友好的な微笑み。
「ユリウス君。会えて良かった。これから王都に戻るところだったんです」
ようやく戻るのか。俺は密かに胸を撫で下ろした。
神出鬼没な大司教様である。普段は恐らく転移魔法とかでぽんぽん移動してるんだろうが、今回は馬車移動らしい。お供の弓兵たちと共に帰るのだろう。
「それじゃあ、ベアトリーチェは連れて帰りますので」
「? はぁ」
馬車に乗り込んでいく大司教様の言葉に生返事で答える。
今回、大司教様が従えていた弓兵たちの中に見知った顔はなかったし、“ベアトリーチェ”という名の知り合いもいない。どこかで聞いたことがあるような気もするが。
しかしそれを確かめる暇もなく、大司教様の馬車は王都に向けて走り出していった。
「ん……?」
馬車の走り去っていったあと。道端にポツンと置き去られた袋を拾い上げる。
弓兵の誰かの忘れ物か? 中に入っていたのは蛇をぶつ切りにして乾燥させた肉片。いや、弓兵の忘れ物じゃなさそうだな……
*****
教会へ戻った俺をアイギスと秘密警察が出迎えた。
ルイの狂気に耐えられなくなったウサギが口を割ったらしい。まぁ口を割ったところでルイから逃げられるかと言うとそんなことはないのだが。
聞き出した情報を整理し、アイギスは魔王城の魔物の戦力をこう評価した。
「個々の戦力はフェーゲフォイアー周辺に住んでいる魔族の眷属に劣りますが、警戒すべきは彼らの戦略性です」
魔王城の魔物はみな人語を解し、独自の文字を持ち、共同生活を送っていた。フェーゲフォイアー周辺に住む魔物とは異なった生態である。
今までもこの街は何度か魔王城の魔物による襲撃を受けてきた。シェイプシフター、アカマナ、勇者をゾンビにされたこともあったな。奇をてらった術を使い、少数で効率的にこの街を乗っ取ろうとしてきた。
それは彼らが弱いからだ。魔族くらいハチャメチャに強ければ何も考えず生きていけるが、彼らはそうじゃない。力に頼らない能力を持ち、頭を使えるように進化した――いいや、厳しい環境に淘汰されてそういう魔物しか残らなかったんだろう。
アイギスが腕を組み唸る。
「魔王軍が攻め入ってきたら、まずは迅速に数を減らしたい。なにか方法は――」
「爆弾を抱えて敵陣の真ん中に突っ込み、自爆するっていうのはどうですか?」
「自爆って、どうせ俺たちがやるんですよね!?」
俺の言葉に秘密警察たちの顔が強張る。
取り出したのは見覚えのある一冊の本。魔王を退けた勇者の戦いの記録を記した歴史書である。自爆を回避するため必死に紙を捲る。
「もうちょっと穏便な方法があるんじゃないですか。ええと、そう、魔法とか!」
言いながらページを指し示す。伝説の勇者たちがとった戦術が大袈裟な言葉で詳細に語られている。しかし俺の視線が吸い込まれたのはその片隅に書かれていた杖の挿絵であった。先端に宝玉のついた杖――現在はカタリナに受け継がれている。“暴食の杖”だ。
秘密警察が本の内容を読み上げる。
「“その杖は雷雲を呼び寄せ、幾千万もの魔王の手先を降り注ぐ雷で屠った”。今からでも魔法使いを集めて特訓させましょうよ」
自爆を回避するだけでなく別の人間に地獄の特訓をなすりつけるとは。やりおる。
全体攻撃魔法――高難易度魔法だ。実現できれば頼もしい。
自爆は有効だが秘密警察共にバンバン自爆死されると蘇生が大変だからな。どうしようもなくなった時の最終手段くらいにしておきたい。
俺は杖の挿絵をなぞる。古の勇者にやれたのだ。今の時代の魔法使いにできない道理はない。少なくとも暴食の杖にはそのポテンシャルがある。あとは持ち主の技量次第。脳裏にカタリナのアホ面が浮かぶ。
「やってみる価値はあるかもしれません」
「なるほど」
アイギスが剣を抜いた。
よく通る声で秘密警察たちに命令を下す。
「カタリナを連れてこい。他の魔法使いもだ。魔法使い強化合宿を開催する!」
集団で訓練を行うことで全体の戦力向上をはかるという趣旨だ。それは分かる。それは分かるが剣を抜く意味は?
しかしさすがは秘密警察。アイギスの意図を一瞬で汲んですぐさま行動に移す。一切の戸惑いなくそれぞれの得物に手を伸ばして教会を飛び出していく。野太い声を上げた。
「魔法使い狩りだーッ!」
雨天決行、リタイア不可、参加拒否権ナシ。人権を取り上げられた魔法使い強化合宿が今、始まる……!
俺は哀れな魔法使いたちの死亡フラグにむせび泣いた。訓練で人死にを出すなという俺の訴えはことごとく無視されてきた。きっと今回もそうなるだろう。
ほらやっぱり。
降り注ぐ魔法使いの死体が折り重なって積まれていく。惚れ惚れするほど美しい首の切断面。秘密警察式新兵訓練の歓迎会が開かれた。俺はまた泣いた。
白い腕が何かを差し出す。ハンカチ? 違う。白い封筒。
俺は涙で霞んだ視界の中、なんとかそれを受け取る。
見慣れた文字で書かれた宛名。実家の母からだ。そういえば今年は帰省できなかったなぁ……
魔法使い強化合宿のプレッシャーで周りが見えなくなっていたからだろうか。なぜか俺はなんの疑問も抱かず、封を開けて便せんにしたためられた手紙を読んだ。
内容は語るほどのものではない。
そっちは元気でやっているかだの、たまには手紙を書けだの、孫の悪戯に悩まされているだの、取り留めもない内容だ。最後の一文を除いて。
『仕事が忙しいのは分かるけど、女の子を一人で遠出させるのは感心しません。今度は二人揃って、きちんとあなたの口から紹介してね』
手のひらがじっとり濡れていくのを感じる。
俺は思い出していた。この街に戻ってきてからまだ一度も顔を合わせていない勇者。
手紙に視線を落としたまま固まる。顔を上げられない。勘違いであってくれ。そんな思いを嘲笑うように耳元で囁かれる言葉。
「ただいま、ユリウス」
ああ、やっぱり。
俺は諦めにも似た思いを胸に振り返る。
当然のように気配なく背後に潜むパステルカラー。
はにかむような笑みを浮かべる。差し出したのは――箱。どこか古めかしいデザインのそれには見覚えがある。郷里の銘菓だ。
「これ、お義母さんから」
俺は愕然とした。そして帰省できなかったことを酷く後悔した。
歯の根が合わない。全身に汗が滲む。やられた。外堀埋めだ。勝手に実家訪問しやがったんだ。
恐らく勘違いをしているであろう俺の家族に改めて紹介させてほしい。
この女はイカれたストーカーです、と――
「あ、リエール!」
オリヴィエだ。
郷里の銘菓を抱えて震える俺を一瞥し、怪訝な顔で首を傾げる。
「神官様、どうしたんです? 顔真っ白ですけど」
答えようと口を開く。しかし歯の根が合わず上手く舌が回らない。
オリヴィエもさして気にしていないらしく、すぐに話題はリエールの帰還へと移った。
「冬休み長すぎだよ!」
「ごめんね。ユリウスの実家が意外と遠くて」
「じゃあしょうがないけど……」
しょうがなくないだろ。いい加減にしろ。
「これでようやく本格的に冒険に出られるよ。カタリナは?」
「まだ会ってないけど。一緒じゃないの?」
オリヴィエの言葉にリエールも首を傾げる。
秘密警察による魔法使い狩りは順調に進んでいるようだが、カタリナの死体はまだ送られてきていない。
「おかしいな。リエールが帰ってきたら一緒に食べるんだってシーサーペントの肉を干しに行ってたんだけど」
シーサーペントの干し肉?
俺は懐から巾着を取り出す。大司教様と別れた際に拾ったものだ。中に入っているのはぶつ切りにした蛇の干し肉。
「あれ? それカタリナの。なんで神官様が持ってるんですか?」
オリヴィエの声がどこか遠くに聞こえる。
嫌な感じがする。なんだこの違和感。
俺は無造作に投げ捨てられた歴史書を拾い上げた。秘密警察たちが捨て置いたものだ。汗の滲んだ指でページをめくっていく。
――あった。
そうだ、どうして気付かなかった。
「ユリウス? どうかしたの?」
首を傾げる二人に、俺はその本を指し示す。
記してあるのは魔王を退けたとされる伝説の勇者のうちの一人。暴食の杖を携えた小柄な白魔導師。
名は――「ベアトリーチェ」。
『それじゃあ、ベアトリーチェは連れて帰りますので』
大司教様の去り際の言葉。
もう彼の仲間はこの世のどこにもいない。しかし面影を感じられるものがそこにあったとしたら。
俺は静かに、二人へ告げる。
「カタリナは……攫われたかもしれません」