「あ、あれ? 怒っちゃいました?」
「いいえ」
絶対に嘘だ。煽り耐性ゼロかよ。
表情は変わっていないのに凄まじい威圧感。殺される。本能的にそう感じた。
「で、なにをしに来たんでしたっけ?」
「あ……その……」
俺の言葉をかき消すようにまた雷鳴が轟く。
少し遅れて間抜けな声が上がった。
「キャー!」
雷鳴に紛れた悲鳴。微かな音だったが、目が覚めるような声だった。
窓の外、バルコニーだ。
俺は駆けだした。大司教様の脇を抜け外へ出る。
――いた。
「し、神官さん……?」
呆然とした声。丸い目をますます丸くしてこちらを見ている。手にはいつもの杖。見慣れた顔に安堵したか。杖を手に持ったままへなへなと座り込んだ。
なんだかこちらの力まで抜けてくる。湧いてくる文句をグッと堪え、笑みを向けた。
「……思ったより元気そうでなによりです、カタリナ」
いや、力を抜いている場合じゃない。本番はここからだ。
俺を追うように大司教様がバルコニーへ現れる。
「なにを座っているんですか? そんな暇はありませんよね」
カタリナがほんの少し上体を反らしたのが分かった。怯えている。それを振り払うようにして言う。
「遠隔操作はやめてくださいって言いましたよね!」
さっきの稲妻、カタリナの杖から出たのか?
“その杖は雷雲を呼び寄せ、幾千万もの魔王の手先を降り注ぐ雷で屠った”
古の勇者の戦いが記された歴史書の文言は、どうやら嘘や誇張ではないらしい。
……しかし、あの雷を呼び出したのはカタリナではない。
「ベアトリーチェは杖の使い方の矯正中です。ほら、気にせず続けてください」
「だから、ベアトリーチェって誰なんですか! 私はカタリナです」
「では、その名は捨ててください」
無茶苦茶なことを平然と言ってのける。
大司教様の視線はカタリナに……いいや、その杖に注がれていた。
「生まれ変わるくらいの気持ちでなければいつまでも杖を使いこなせない。それを託した仲間が報われない」
伝説の勇者の一人――大司教様の仲間、そしてカタリナの先祖であるベアトリーチェは暴食の杖に永遠を与えた。
長い時の中で、大司教様の活躍をその目で見た人間はいなくなり、仲間に関するあらゆる物理的な物も失われた。あの杖は仲間を感じることのできる唯一のアイテムなのだろう。
しかし、そのこととカタリナは関係が無い。
「もう杖のレッスンは十分でしょう? オリヴィエもリエールも心配していますよ」
「は……はい!」
……まぁ、それで帰れたら苦労はしないのだが。
大司教様が右手を上げる。扉がひとりでに閉まり、俺たちはあえなくバルコニーに締め出された。
「そうまで言うなら試験をやります。私に膝をつかせることができれば帰ることを認めましょう。ユリウス君、手伝ってもいいですよ」
なんでフェーゲフォイアーへ帰るのにお前の許可がいるんだ。
喉まで出かかったが、なんとかその言葉を飲み込む。カタリナが思いの外やる気だったからだ。
「分かりました」
力強く立ち上がり、杖を構え、まっすぐな瞳を大司教様へ向ける。
今回の魔法特訓にカタリナはそれなりの手ごたえを感じたのかもしれない。しかも大司教様は素手だ。勝機はある……なんて考えたのは甘かったのか。
「違う」
カタリナの繰り出す魔法を、羽虫でも払うようにして弾く。フェイントをいれた一撃も。力を込めた渾身の一撃も。赤子の手をひねるように容易く。
武器の有無なんかでは埋められない絶望的な実力差。
しかし物理的な距離は詰められていく。大司教様が攻撃を弾きながら歩み寄って行く。
「違う。違う。違う。違う……全然なってない」
弾かれた光の玉がカタリナの顔をかすめる。
カタリナが固まった瞬間、彼女の杖を大司教様が掴んだ。
「ベアトリーチェはもっと凄かった」
カタリナが怯んだ。しかしそうやすやすと杖を手放すような諦めの良いヤツではない。
「……だから! ベアトリーチェって誰!?」
カタリナが杖を大司教様に押し込む。
噛みつかん勢いで言う。
「違うだの、なってないだの……もっと具体的に言ってくださいよ。どんなだったんですか!?」
「どんなって、ベアトリーチェは」
言葉が続かない。口を開きかけたまま、大司教様から表情が消える。視線が彷徨う。眼が虚ろになる。
「……どんなだったかな」
体に老いが来なくとも、長い時を生き続けた負荷は必ずどこかに影響を与える。
記憶はその最たる例だろう。大事な仲間の顔、声、仕草――多分、もう、細かくは思い出せないのだろう。
しかし案外、体は覚えているものだ。
「そうそう、確かこんな感じです」
カタリナと杖を取り合う格好のまま、大司教様はそれを掲げた。
瞬間、遠くの空に稲妻が走る。先ほどの比ではない。空がひび割れたのかと思うほどの量。耳を塞ぎたくなる轟音。どこからか雷鳴に驚いた人の悲鳴が聞こえてくる。
これにはカタリナもあっけにとられたようだった。
「す、すご……」
「昔ベアトリーチェに習いました。彼女はこんなものじゃありませんでしたが」
カタリナが杖を掴む手を緩めたのが分かった。
俯き気味になって言う。
「この杖、本当は教会に寄贈されるはずだったそうです。最初の持ち主の遺言で……色々あってそれは叶わなかったんですが、もしかすると神官の方がこの杖を上手く扱えるのかな」
いいや、違う。
神官の方が杖を扱えるなんてことはない。攻撃魔法は魔導師の得意分野。しかも、ベアトリーチェは杖が冒険をする者の手に渡ることを願っていたはず。どうして教会に寄贈なんかしたんだ。
……教会と言う組織ではなく、個人に杖を贈ろうとしたのか。
大司教様に向き直る。
「“魔導師は自らの杖に永遠を与えた。いつか杖を受け継いだ誰かが何にも縛られず冒険に出られるように”」
ベアトリーチェの言葉。
俺たちは解釈を間違えていた。彼女の言った“誰か”とはまだ見ぬ遠い子孫ではない。
長い人生から見ればほんの一瞬。とても辛くて、そして楽しい時間を過ごした仲間へのメッセージ。
「ベアトリーチェはあなたに杖を贈りたかったのではありませんか。過去の後悔や栄光に縛られず、自分だけの冒険に出られるように」
仲間たちは――少なくともベアトリーチェは大司教様たちとの冒険を忘れたわけではなかった。
そうじゃなければ遺言など残すまい。
大司教様をたった一人残していくのが最期の最期まで心残りだったに違いない。
「――あぁ。思い出しました」
大司教様が杖の先端についた宝玉を覗き込む。なにもないはずのそこに、なにかを見ているような遠い目。呆れたような笑みを漏らす。
「ベアトリーチェはちょっと面倒くさいヤツでした。回りくどいサプライズを用意しては、よく失敗していた」
顔を上げる。カタリナを見て苦笑する。
「さすがにこれだけ代を重ねると、全然似ていませんね」
カタリナが目を見開く。
大司教様を見て、ではない。その丸い瞳にシルエットが映る。大司教様の背後で鈍器を振り上げる俺のシルエットが。
ゴッ、という鈍い音。後頭部に女神像(小)の一撃を食らった大司教様が受け身も取らずバルコニーに倒れ伏す。その後頭部に吐き捨てるように言う。
「膝をつきました。私たちの勝ちです」
ルッツに刺されたあの時も、大司教様は勇者について――つまりかつての仲間について話していた。そこが集中の切れるポイント。分かりやすいことだ。
実力差のある相手でも、弱点をついて不意打ちかませばそこそこ戦えることもある。
なのになんだその顔は。カタリナが引き気味に言う。
「えぇ……普通今殴ります?」
「殴りますよ? 手伝って良いって言われましたし」
「それは回復魔法とか支援のことを言ったんじゃ……」
どうとでも受け取れる曖昧なルール設定にしておくほうが悪い。
さて。無事試験も終わったことだし、あとは――。
「まずはオリヴィエ、リエールと合流しないと。カタリナ? なにをやってるんですか。行きますよ」
「あっ……はい……」
さっきの“試験”に納得がいっていないのか。カタリナに覇気がない。
そうはいっても、大司教様と普通にやりあって勝つだなんて並の勇者じゃ無理だ。あれはバケモノだ。
ほら、もう顔を上げて起き上がった。不意打ちへの抗議が来るかと身構えたが、大司教様はポツリとこう漏らした。
「帰らない方がいいですよ」
先程までとはニュアンスが違う。
親切心から言ってやっているとでも言いたげだった。
一体どういうことか。答えは暴風と共に空から降って来た。ドラゴンだ。羽ばたきのたびに体が飛ばされそうになる。
背に乗ったロンドと目が合う。
いつになく緊迫した表情。今にも泣きそうな顔で叫ぶ。
「フェーゲフォイアーに魔王軍が攻めてきました!」
血の気が引いていく。足が動かない。最悪のタイミングだ。
フェーゲフォイアーは魔物に対する人類の最大戦力。あそこを占拠されるようならもう王都は落ちたも同然。
今、街はどうなっている? 俺がいないのに、勇者はちゃんと戦えているのか? いや……無理だ。
街を離れるべきじゃなかった。迂闊だった。もっと考えるべきだった。他にやり方があったかもしれない。あの時、もっと――
「ユリウス君」
大司教様が起き上がっていた。
いつもの人工的な薄笑い。しかしいつになく挑発的な口調。
「現代の腑抜けた勇者たちがどこまでやれるのか疑問です。長生きしたいなら帰らない方が良いと思いますが、どうしますか?」
「……馬鹿言わないでください」
大司教様の言葉に少しだけ腹が立っていた。あるいは、わざとそう仕向けたのかもしれない。
そうだ。まだ終わっていない。後悔ならあとでいくらでもできる。
引いた血の気が戻ってきた。足が動くようになっていた。
「魔王軍殲滅の瞬間をこの目で見ないと。きっとやり遂げますよ。勇者は腑抜けていますが神官が優秀なので」