命は尊い。
子供でも知っている道徳の基礎。
当たり前すぎてそれを敢えて口にする機会はそうそうない。
ではなぜ命は尊いのか。イキった思春期の少年少女が「どうして人を殺しちゃいけないのー?」なんてアホ面で聞いてきたりするが、そんなのは決まっている。
不可逆だからだ。
フォローできない、リカバリーが効かない、替えになるものがない。失った命は戻らない。だから尊い。
「だから、ね。そう落ち込まなくていいんですよ。なぜならあなたがいくら嘆いたところで失った命は戻らないからです」
「うっ……」
トイレから帰ってきたばかりのフェイルがまた口元を押さえてうずくまる。
全く、昨日からろくに食ってないっていうのによくもまぁあんだけ吐けるもんだ。
「なにか飲みます?」
フェイルの反応はない。
俺は葡萄ジュースをグラスに注ぎ、フェイルに差し出す。受け取らないので、横に置いてやる。まるで供え物のように。
グラスはもう一つある。俺のだ。
「好きなんです、葡萄ジュース。皮を剥かなくて良いのでね」
赤紫の液体を喉に流し込む。すっきりした甘さが食道を通って胃に流れていく。
勢いよく流し込んだものだから喉のキャパを超えた分が口の端からこぼれて、喉を伝い神官服を赤く染める。だが知ったことではない。今更一つ二つシミができたところでどうにもならない。元からこの服は赤黒く汚れている。
ルビベルの血だ。
「そういえばルビベルもね、葡萄ジュース好きだったんですよ。でも私、自分の分を確保するためにケチったんですよね。少ししかあげなかったんです。こんなことなら……もっとあげておけば良かったなぁ」
俺はフェイルの背中をさすりながら、彼の干からびた顔を覗き込む。
「顔色が優れませんね。やだなぁ、別に貴方の下手くそな弓を責めているわけではありませんよ。貴方は勇者拷問事件の犯人を見事射止めたんです。どうぞ大手を振って王都にお帰り下さい」
「そんな……そんな事は……」
ひび割れた唇を微かに震わせ、蚊の鳴くような声を上げるフェイル。今にも舌を噛んで自殺でもしそうな勢いだ。
そろそろ頃合いかな。
俺はフェイルの肩に手を置く。
「罪悪感に押しつぶされそうですか? 助けてほしいですか?」
フェイルが顔を上げる。
絶望に沈んだ顔。縋るような視線。
溺れる者が藁を掴むように、俺の血まみれの神官服を握る。
「助けて……助けてください」
俺は立ち上がり、彼に背を向ける。
思わずこぼれる笑みを隠すためだ。
俺は奥から小さな棺を運び込み、怯えた表情をしたフェイルの前に置く。
蓋を開けてやると、フェイルの口から情けない悲鳴が漏れた。
中に納められているのは、フェイルが射貫いたルビベルの死体。蒼白い顔、だが安らかな表情だ。
「大丈夫。ここは教会。神に最も近い場所です」
俺はそう言って、神官スマイルをフェイルに向ける。
フェイルは呆けたような表情でこちらを見ている。
俺はヤツの前で手早く作業を行った。
それほど損傷の酷い死体ではない。なんの新鮮味もない、いつもの仕事だ。
しかしフェイルにとって、それはまさに神の御業であった。
「あ……ああ、ああ……!」
「んん……?」
薄汚れたステンドグラスから差し込む光が、棺桶から起き上がるルビベルを照らす。
彼女はまるで眠りから覚めたかのように目を擦り、むせび泣くフェイルをキョトンとした表情で見つめている。
「奇跡……奇跡だ……!」
顔面が溶けだしてしまいそうな泣きっぷり。
新鮮なリアクションだ。みんなこれくらいのありがたみをもって俺に接してほしいよね。いや、やっぱここまでじゃなくていいや。毎回このリアクションされたらちょっとウザいわ。
「お前、本当に悪趣味だよな」
祭壇の裏からひょっこり顔を覗かせたグラムが呟く。
俺は答えた。
「ルビベルの蘇生料の代わりですよ。これくらい良いでしょう」
*****
時を遡ること、昨日の夕刻。
「あ……ああ……噓だろ……あああ!」
袋小路にグラムの慟哭が響き渡る。
噴き上がる血潮が雨のように俺たちの頬を濡らす。小さな命が消えていく。
光の矢は、ルビベルの細い喉を貫いて消えた。
「あっ……」
と同時に矢を放った張本人であるフェイルが膝を折る。
手に持っていた弓も霧散するように消えていった。魔力の供給が途絶えたからだろう。勇者でもない幼女を射貫いた挙句、フェイルは気絶しやがったのだ。
だがそんなことは今はどうでも良い。
俺は駆け出し、壁の上から落ちてくるルビベルを抱きとめる。
「ル、ルビ、ベ……」
「触るな。治療します」
ルビベルに伸びるグラムの手を乱暴に払いのけ、俺はルビベルに回復魔法を施す。
跳ね上がる心臓とは裏腹に、俺の脳は妙に冷静だった。
急所への一撃。この出血量。致命傷だ。脈ももうほとんど触れない。しかも子供だ。
助からない。蘇生もできない。彼女は勇者じゃない。
死ぬ?
俺は一滴も出血していないのに、血の気が引いていくのを感じる。
こんなはずじゃ。こんなはずじゃなかったのに。
「なぁ、なんで塞がんねぇんだよ。真面目にやれよ、頼むから。頼むからさぁ!」
「うるせぇッ! 今やってんだろうが!」
言われなくたって、ありったけの魔力を込めている。
でもダメなんだ。ルビベルはぐったりと脱力し、まるで眠っているように俺に体重を預ける。
「うう……神官さん、俺も……俺も助けて」
何かが俺の足首を掴む。
ルビベルに拷問された“かつて勇者だった肉塊”だ。俺は一瞥し、吐き捨てる。
「貴方は死んだ方が早いです。グラム、介錯してやりなさい」
「うわあああぁぁぁぁッ! ルビベルぅぅぅ……」
グラムは慟哭しながら肉塊に斧を叩きこむ。やがて声を上げなくなった肉塊は光に包まれて消えた。教会へ移動したのだ。勇者にとって死は軽い。
だが、ルビベルは……
「な、なんだ?」
グラムが声を上げる。
俺は目を見開いてルビベルを見た。俺の腕の中で、ルビベルが光に包まれている。
見覚えのある光。
「これは――」
光がルビベルを覆い、そして形を変える。
まばゆい光が消えた時、俺の腕の中にあったのは見慣れた――しかしこれまでに見たどれよりも小さな棺桶であった。
「こ、これは……でも、どうして……」
茫然としていると、何かが俺の肩を叩いた。
振り返ると、神官服を纏った見慣れた顔が俺の肩越しにへらりと笑う。
「おいユリウス、路銀が底をついた。お前んち泊めて」
「ルッツ……お前まさか」
ビンゴだった。
教会で遊んでいたあの時。ルッツはルビベルにせがまれ、お小遣いをあげるような感覚で彼女を勇者に転職させたのだ。
「だってさ、職業“奴隷”って可哀想じゃん?」
サラリとのたまうルッツを殴ろうと拳を振り上げ、そしてゆっくりとおろした。
少なくとも、ルッツのおかげでルビベルを蘇生させることができる。また彼女の笑顔が見られるのだ。
だが、こうなると俺にも欲が出てくる。
転んでもただでは起きぬのが神官さんスタイルだ。
この事件をうまく利用してこのノーコン腰抜け騎士野郎を手中に収められないだろうかと考えた。
いやぁ、教養ってつけておくもんですね。
俺は埃のかぶった聖書の並ぶ本棚の中で異様な輝きを放つ一冊に視線をやる。
『洗脳古今東西』――俺の新たなバイブルである。
クククッ、洗脳がこんなに簡単だとはな。
壊れるくらいに強い負荷をかけ、それを一気に取り除く。
これだけのことで、見ろ。フェイルの眼。まるで神様でも見ているみたいじゃないか。
俺は膝を折り、フェイルと目線を合わせる。そして彼の肩に手を置いて神官スマイルを浮かべた。
「良かったですねぇ、これで王都に帰れますねぇ。王都に帰った暁には、本部のお偉方と父君にぜひよろしくと」
しかしフェイルは俺の言葉を遮り、とんでもないことを口にした。
「いいえ、王都には帰りません」
「……は?」
頭が追い付いていかない。
つまりどういう事?
「奇跡だ。こんなものを見て、王都になんて帰れません。神はきっとこの地にいるのですね。神官様、俺は貴方についていきます」
「いや、私が貴方について王都に――」
フェイルは俺の言葉を遮るようにふらりと立ち上がる。
昨日から一睡もせず吐き続けていたフェイルの顔はやつれきっているが、瞳孔の開いた目だけはギラギラと輝いている。
フェイルはどこか狂気すら感じさせるその目に俺の顔を映し、高らかに宣言した。
「俺、勇者になります!」
俺は酸欠の金魚のように口をパクパクとさせる。
恵まれた環境を持つ者ほど、そのありがたみが分からず刺激的な地獄に飛び込みたがる。
俺は頭を抱えた。なにが奇跡だ。
命は尊い。なぜなら一度失ったら戻らないから。
なら、蘇生の利く命は?
そんなものは吹けば飛ぶ虫けらのごとき価値しかないのだ。
もし本当に勇者になると言うなら――お前はそのことをこれから嫌というほど味わうことになるだろう。