「もうちょっとだよ、頑張って」
そう言ってマグカップを支える手に力を籠めるルビベル。
ズズズ……と音を立てながら、マグカップの中の液体がストローを通って上っていく。早くはない。しかしゆっくりと、確実にマグカップの中の液体は嵩を減らしている。
「落ち着いて……焦らなくて良い。もう少しだ」
その様子をルッツが見つめている。声は冷静だが、拳は力を込めるあまり震えている。
そしてとうとう、その瞬間は訪れた。
ズズッ……ズッ……
ストローが祝福の音を響かせる。
ルッツがマグカップを覗き込む。顔を上げた彼の頬に、一筋の涙が伝う。
「これでフェイルは勇者として生きていくことになりました……生まれ変わった気持ちで修行を積みなさい」
とうとうこの瞬間が訪れた。
長きに渡る戦いが終わったのだ。
ワッと歓声を上げるルビベル。
「やったねフェイルくん! これで一緒にチュートリアルできるよ!」
空になった樽を抱えて顔を伏せるフェイル。肩を震わせて……お前、泣いてるのか?
「いや、どんだけ時間かけてんだよ」
興を削ぐ発言を堂々と行うのは腕組みをして俺たちを見下ろすグラム君である。
いやね、正論だよ? 普通の人間は勇者になるのに三十分も掛からないからね。なのにフェイルは数日かけてる。
でもさ、人間って正論だけで生きてるわけじゃないよ。
「そ、そもそもなんで俺たちがこいつの転職に付き合わなきゃなんねぇんだよ」
俺たちの刺々しい視線に耐えきれなくなったか、バツが悪そうな表情を浮かべてそう続ける。
なるほど、これまた正論だ。俺は答えを求めてルッツに視線をやる。
「ちょうどいいから初心者講座を二人まとめてやろうと思ってね。二人はいわば同期だ。仲良くやりなよ」
「はぁ? コイツと一緒かよ。ルビベルを殺したんだぞ」
グラムは眉間に皺を寄せ、不快感を隠そうともしない。なるほど、正論だ。フェイルがガタガタと体を震わせる。
じゃあ俺も俺も。俺もやる〜
俺はグラムの肩に手を置き、強引に視線を合わせる。
「貴方も私のこと殺しかけましたよね」
「それで、チュートリアルってなにすんだ?」
強引に視線を外すグラム。
さて、気を取り直して。ルッツ先生の勇者講座、はっじまるよ〜。
……おや、どうしたんだルッツくん。全然始まらないじゃないか。
ルッツはそそくさと俺の側に寄ってくる。なになに?
「チュートリアルってなにすんの?」
はぁ?
「お前ハロワ神殿にいたんだろ?」
「だって俺、書類整理担当だったし」
なんで書類整理しかしたことないヤツがスカウトマンに選ばれんの? お前やっぱブラック職場からプリズンブレイクしてない?
まぁ良い。新米勇者の前だからな。ルッツくんへの尋問は後でやるとして。
「魔物との戦いについては我々は専門ではありません。慣れている人とパーティを組んで色々教えてもらいなさい。それから、教会の利用についてですが」
説明しようとして、俺はハッとする。
そうだ。今日はヤツらがダンジョンに潜ると言っていた日。
俺は小さく拍手する。
「おめでとうございます。あなた達は運が良い。ちょうど良い教材が直に来ますよ」
適当に説明してあとはグラムに投げようと思っていたが、やはり初期の教育は大事だ。
鉄は熱いうちに叩け。こうなってはならないと言う負の指標として、今のうちにヤツらを見せておくのは悪くない。
そしてヤツらは、俺の期待を上回る反面教師っぷりを見せてくれた。
「じんがんざぁん。だずげで〜」
ベソをかきながら教会に入ってくるカタリナ。彼女の後ろを歩くオリヴィエはゴブリンと見紛う体色をしてる。パステルさんの姿はなく、かわりにオリヴィエの後ろを棺桶がついて回っている。
よしよし。これも好都合だ。生まれたてのひよっこ勇者の教育にパステルさんは悪影響だからね。
俺は断りを入れて見学者を後ろに控えさせたまま、カタリナパーティが置かれた現状を聞く。
要約するとこうだ。
ダンジョンの奥にいたアラクネとの死闘を繰り広げたカタリナ一行は、打ち取ったアラクネを美味しく頂いた。戦闘で受けた毒が体に回ったか、あるいは美味しく頂かれたアラクネの最期の一撃を食らったか。リエールは死に、オリヴィエも毒に侵され満身創痍。
いや、色々突っ込みどころあるね。
だいたいアラクネ食うか、普通。上半身女で、下半身蜘蛛でしょ? どっち食ったの?
まぁ良いや、そこをあんまり深く追求しても気分が悪くなるだけだからな。
「……で、あなたは平気なんですね」
恐らく一番敵に突っ込み、一番多くアラクネを食ったろうカタリナの顔色は皮肉にも健康そのものだ。腹強えな。
しかしカタリナは相変わらずベソをかいている。
「平気なんかじゃないです! 見てくださいこれぇ……」
カタリナはそう言って手を差し出す。
なんだ? 俺はカタリナの手を取り、そして振り払った。
「ひえっ……呪われてるじゃないですか! さ、触っちゃった」
俺は慌てて手を払う。
右手中指から広がった黒い文様が虫のようにカタリナの腕を這いまわっている。
「誰かに呪われちゃったの?」
ルビベルの言葉に俺は首を振る。
これは術者のいるタイプの呪いじゃない。“呪いの装備”を付けることで自動的に発動する類のものだ。
今回の場合、呪いの元は指輪だろう。カタリナの中指に光る、細かな文様の施された指輪。
「これ、どうしたんですか」
「アラクネのお腹から出てきたんです。試しに着けてみたら取れなくなっちゃって……ああっ」
呪いの渦巻く右手が、蛇の如く俺に襲い掛かる。
それをゴブリン……じゃなかった、顔色のヤバいオリヴィエが止めた。
「ご、ごめんなさい。もう右腕の自由がほとんど利かなくて。感覚もないんです」
「文様がどんどん広がってます。早く呪いを解いて……といいたいところですが、まず僕の治療良いですか? 意識が遠のいてきました……」
なるほど。教材としては百点だ。
俺はオリヴィエを支えながら見学者たちに言う。
「教会では最低でも毒の治療、呪いを解く、蘇生の三つを行うことができます。もちろんそれと引き換えに教会への寄付をお願いしていますので、懐が空っぽの状態で教会の門をくぐるようなことは無いように。対象者の熟練度によって寄付金は変わります」
「神官様……そんなの良いから早く……」
オリヴィエ君がそろそろ限界っぽいな。
蘇生となると却って面倒だ。俺は解毒魔法でオリヴィエの毒を治療してやる。
とりあえず“どう見てもゴブリン”の状態は脱したが、顔色はやはり良くはない。毒の治療はできても、毒で失った体力はじっくり休まないと回復しないのだ。
「神官さん、すごーい」
ルビベルがペチペチと手を叩く。
うんうん。彼女は優秀なオーディエンスだな。
しかしこれから先は、あまり人に見られたくない作業になる。俺は見学者たちに言った。
「さ、この辺で新米勇者の諸君は次のチュートリアルに進んでください。グラム、二人を簡単なダンジョンに連れて行ってあげなさい。ルッツも三人を街の外まで見送って」
「ああ、分かった」
「なんだよ、結局俺に投げっぱなしかよ……」
ぶつぶつと文句を垂れるグラムを先頭にして、新米勇者と愉快な仲間たちは教会をあとにした。
さて。俺はカタリナに向き直る。
なにか感じるものがあったのか。カタリナの表情は不安げだ。
「あ、あの……私大丈夫なんでしょうか」
俺は笑顔で頷く。
「ええ、もちろん大丈夫です」
大丈夫じゃなかった。
何度か解呪魔法を掛けてみたが、なかなか上手く行かない。
かなり強力な呪いだ。
クソが~。
しかし必死になればなるほどドツボにハマる。
やっぱり見学者を追い出しておいてよかった。スマートに仕事ができる神官さん像を壊したくないからね。
何を隠そう、俺は解呪が大の苦手だ。
神官学校時代からそうだ。解毒も、一番難しいとされる蘇生も難なくこなしたが、解呪だけはどうにも相性が悪いらしい。
呪いの装備がゴロゴロ落ちているような土地でもないから油断していたが、たまに思い出したようにこうして解呪依頼が来るんだよなぁ。
「神官様、どんどん広がってます」
カタリナの腕を押さえつけるオリヴィエが低く呟く。
右腕に広がっていた文様が、既にカタリナの首にまで勢力を拡大している。これが頭にまで来たら完全に乗っ取られるのだろう。
時間はない……手段は選んでいられないようだ。
「ごほっ……えっ、ちょっ、なんですかこれ」
「聖水ですよ〜解呪のためですからね〜」
俺はカタリナの口に小瓶の中の液体を流し込む。
カタリナが顔を顰めた。
「この聖水ビリビリするんですけど」
「呪いに効いてる証拠ですよ〜」
「し、神官さん、これは?」
カタリナの顔にかぶせた黒い布越しに困惑した声が聞こえてくる。
俺は彼女を宥めるように声をかける。
「聖なる力を込めた布ですよ〜解呪の儀式ですからね〜皆さんやってる事ですからね〜」
「何やってるか見えないの怖いんですけど。取っちゃだめですか?」
「ダメです。取ると聖なる力で目が潰れます」
「ひっ……強力なんですね……」
よし、取り敢えず落ち着いたか。
む? オリヴィエが怪訝な顔をしている。お前はちゃんとカタリナの腕を押さえてろよ。
なんだよ、これが気になるのか。俺は手に持った銀のナイフを手の中で回す。
そしてカタリナの腕に突き刺した。
グチャ……
皮膚表面を覆う文様が逃げ惑うかのごとく這い回り、腕が串刺しにされたムカデの如く暴れだす。
「ひっ……」
オリヴィエが小さく悲鳴を漏らす。バカっ!
「なんですか? なんかありました?」
カタリナが布越しに間抜けな声を上げる。大丈夫、カタリナに飲ませた麻痺毒はしっかり効いているらしい。
俺はすっとぼけた。
「大丈夫ですよ〜今凝り固まった呪いをほぐしてますからね〜」
頼むからしっかり押さえててくれ。俺の力じゃどうにもならん。俺は目でオリヴィエに訴える。
オリヴィエは苦虫を噛み潰したような顔でカタリナの腕に力を込める。
カタリナの腕はムカデの如く元気一杯跳ね回ってる。筋を切ったから普通なら腕は動かないはずなのだが。
やはりムカデを殺すなら頭を潰すしかない。
俺は呪いの頭――もとい指輪の除去に着手する。
とりあえず指輪を引き抜いてみる。が、当然指輪は外れない。ギチギチに食い込んでいる。
ならば。俺は貝の身を外すようにして指輪と指の間にナイフを滑り込ませる。肉ごと指輪を削げ落とせば……と思ったが、これもなかなか上手くいかない。肉を削いでスペースを作っても、指輪はゴムのように縮んでさらにきつく食い込んでいく。
バキッ……。
クソッ、ナイフが折れちまった。
「し、神官様……」
あん? なんだよ。
見ると、オリヴィエが蒼い顔をして首を振っている。
声を出さず、唇だけを動かす。なに?
え? 吐きそう? ふざけんな。俺はジェスチャーで伝える。押さえてろ。
「あの、今どんな感じですか?」
カタリナが不安げな声を上げる。俺は慌てて取り繕った。
「大丈夫ですよ~良い感じに呪いがほぐれてきましたよ~」
「さっきからバキッとかグチャッとか聞こえてくるのなんですか?」
うぐっ。
布越しにカタリナの疑惑の視線を感じる。
「あの……これって本当に解呪なんですか?」
「あ……えと……も、もちろん解呪施術の一環ですよ!」
俺はヤケクソになった。
「特殊な器具を使った最新の施術です。あとちょっとですからね~動かないでくださいね~」
「っていうかさっきから体が動かないんですけど……ちょっと一回中止してもらっても」
「やめると今までのが全部無駄になりますから! 今から呪いの元を断ち切っていきますよ~!」
もはやカタリナよりオリヴィエの方が限界だ。なんだよ、勇者のくせにこの程度の施術でぶっ倒れるのかお前は。
俺の力ではとても呪いに侵された腕を押さえることができない。さっさと済まさねば。
銀のナイフを放り投げ、死人の顔になりつつあるオリヴィエから剣を抜き取る。
断ち切るしかねぇ。呪いの元をよォ!
俺はオリヴィエの剣を振り上げ切っ先を手首に突き立てる。
「ひっ……」
オリヴィエがストンと膝から崩れ落ちる。
と同時に、施術台からコロリと手首が落ちる。カタリナの腕に走る文様が霧散し、消えた。
よし。物理解呪成功。
神官学校時代に呪術学の先生から「逆に凄い」と褒められた上で落第させられた渾身の技である。
呪いの装備ってのは人が装備して初めて脅威となるのだ。人間から無理矢理でも離してしまえば無力化できる。あとは回復魔法で治療さえ済ませば――
「げっ!?」
なんだこりゃ!
落としたカタリナの手首が、指を使ってシャカシャカ動いている。まるで蜘蛛だ。
くそっ、すばしっこい。
「このっ、待て!!」
祭壇の裏に潜り込んだ呪いの手を追っかけまわす。
置いてけぼりにされたカタリナが困惑の声を上げた。
「えっ、ちょっと、今どういう状態ですか」
「施術中なので! お静かに!」
「ねぇ本当にこれ解呪ですか!? ねぇ!」
この後、施術を終えたカタリナは何故か血塗れになった俺と何故かぶっ倒れているオリヴィエに困惑することとなった。