「クソッ、クソッ……! 同じ男爵のくせに、国王に気に入られたくらいでいい気になりおってからに……!」
――王都・東区。
自分の屋敷に帰ってきたグレッグ区長は、自室の中で激しく苛立っていた。
「こちらが下手に出て頼んでやったというのに、よくもコケにしてくれたなッ……! 絶対に許さんぞ、あのクソガキ共!!!」
グレッグ区長は透明なグラスに注がれた高級ウィスキーをグイッと煽ると、壁に向かって思い切りグラスを投げ付ける。
ガシャンッという甲高い音を奏で、粉々に砕けるグラス。
だがそれでも彼の腹の虫は収まらない。
「どうやって報復してくれようか……! だが下手に手出しすれば、国王の不興を買いかねん……ぐぬぬ……!」
グレッグ区長は悔しくて悔しくて堪らなかった。
〝救国の英雄〟だかなんだか知らないが、元はド田舎の領地を守る底辺男爵と、一度はバロウ公爵家を追われた凋落令嬢。
少しおだて上げてやれば、バカみたいに喜んでホイホイ協力してくれるだろう――そんな風に思っていたのに。
それがどうだ。
少し話をしただけで体よく追い返され、あろうことか何十歳も年下のガキの眼光に怯え切って逃げるように帰って来たのだ。
みっともないどころの話ではない。
こんな話が他の区長の耳にでも入ろうものなら、バカにされるだけでは済まない。
グレッグ区長のプライドはズタズタだった。
なにがなんでも報復してやりたかった。
しかしあの夫婦にはアルベール国王だけでなく、バロウ公爵家やクラオン閣下までもが付いている。
下手な報復などすれば、逆にこちらが潰されるのは日の目を見るより明らか。
加えて聞くところによると、アルバン・オードランの剣術の腕前は一騎当千。
これまであらゆる刺客を返り討ちにしてきたらしい。
生半可な暗殺者など送り込んでも、逆に自分の首を絞めることになりかねない。
クソが――クソがクソがクソが!
一体どうしたら……!
グレッグ区長が鼻息を荒げ、そんなことを考えていた――その時だった。
『――――〝魔導書〟は、いるかしらぁ?』
――幼い少女の声。
しかしその声色は甘くねっとりとして、鼓膜にまとわりつくような妖艶さがある。
「ッ!? だ、誰だッ!?」
自分以外誰もいないはずの部屋に突如響いた、正体不明の声。
グレッグ区長は驚き怯え、部屋中を見回すが――どこにも人影はない。
『あぁん、怯えないでぇ? 初めましての時は、痛くしないって決めてるからぁ』
――部屋の角。
光が当たらず影となり、小さな暗闇となった空間から――ヌルリとなにかが這い出てくる。
初め、グレッグ区長はそれがなんだかわからなかった。
酷くぼんやりとして見え、まるで影が揺らいでいるだけのようにすら思えた。
だがどういうワケか、彼の目はそれを徐々に人の形だと認識し始める。
真っ黒なフードとマントで全身を覆い隠した、とても小柄な背丈の人間。
フードから僅かに覗く紅い唇は、マントの中身が女性――
――いや、〝薔薇のように真っ赤な口紅を塗った幼い少女〟であることを掲示していた。
「な、なんだお前は……!? 一体どこから入ってきた!?」
『うふふ、気のちっちゃい豚さんねぇ。その感じだと、気と同じでナニまでちっちゃい小豚さんなのかしらぁ……♪』
甘ったるい声で罵倒してくるマントの少女。
彼女はグレッグ区長の方に近付いてくると、
『怖くて縮み上がっちゃった、憐れで醜い小豚さん……。あの夫婦に、復讐したくなぁい?』
「な……なに……?」
『復讐して、気持ちよくなりたいでしょう? ちっぽけな自尊心を満たす、惨めな自慰がしたいでしょう?』
少女はそう言って、マントの中から紅い爪化粧が施された手を出す。
その手には、一冊の古びた本が握られていた。
『できるわよぉ……〝魔導書〟があれば』
▲ ▲ ▲
――俺たち夫婦の下にグレッグ区長が尋ねて来た、翌日。
俺とレティシアは、東区の方までデートに来ていた。
「今日もいい天気だなぁ~。絶好のデート日和だよ、なぁレティシア」
「……ええ」
表情筋が緩み切った状態で道を歩く俺だったが、その隣を歩くレティシアはなんとも浮かない顔。
どうやら――まだグレッグ区長が言っていたことを気にしているらしい。
ちなみに今日東区まで来たのだって、セラたちの様子を見るためだ。
レティシアはもう、心配でならなかったのだろう。
俺はレティシアとデートできるなら他はどうでもよかったので、彼女の意を組んでここまで一緒に来た次第。
「レティシア、そう浮かない顔をするなって。阿呆のグレッグが言ってた区画整理事業は、どうせ当面は進まないだろうよ」
ただでさえ地区の住民から反発されて、それを抑え込むためにグレッグ区長は俺たち夫婦を利用しようとしたんだ。
その話が破談になったとくれば、しばらくの間は計画も進むまい。
とはいえ、セラたちが地下水道から追い出されたり衛兵に捕まったりする可能性はある。
グレッグ区長もアイツらのことは認知していたからな。
最低限、セラたちに忠告はしておいた方がいいだろう。
それでアイツらが東区を離れて、保護を受け入れてくれるかはわからんが。
レティシアも、その辺りはよく理解しているつもりだろう。
「クラオン閣下はセラたちを保護すると言ってくれてるんだ。最悪、力づくで連れて行けばいいさ」
「うん……わかってる」
「……やっぱり、セラ以外の子供たちが心配か?」
俺が尋ねると、彼女は沈黙で答える。
王都には、不法滞在者を保護する法も守るべきという風潮もない。
特に中流階級以上の人間の中には、貧困に喘ぐ彼らを露骨に毛嫌いしている者も多い。
汚らしい、見るのも嫌だってな。
無論、それは騎士団周りだって例外ではあるまい。
幾らクラオン閣下が温情に厚い人物とはいえ、周囲の反対が強ければどうなるやら……。
セラは大丈夫だろうが、それ以外は……。
かと言ってセラたちを放っておけば、結末は決まっている。
そういうのが全部わかっているから、レティシアは悩んでいるのだ。
「う~ん」と、俺は頭の後ろで手を組む。
――――カッコいい夫、とはなんぞや?
その定義とは?
ズバリ、その一つに――妻が困っている時、悩んでいる時に――イカした言葉を掛けてあげられること、ではなかろうか?
「――あ~、面倒くさいな~! オードラン領の人口減少、面倒くさいな~」
「え……?」
「オードラン領の人口がちょっと減ってきたって、セーバスの手紙で書いてあったようななかったような気がするな~。人口のことまで考えなきゃなんて、面倒くさいな~」
俺は如何にも気の抜けた感じでそう言って、チラッとレティシアの方を見る。
「面倒くさいから……オードラン領に適当な孤児院作って、不法滞在者の子供でも突っ込むか」
「――! アルバン……!」
「教育係ならセーバスがいるし? ま、クソガキ共が素直にド田舎まで行ってくれるかまでは知らんけど」
うーん、我ながら実にわざとらしい言い分。
適当感が半端ない。
つーかこれ、ぶっちゃけ領地の資本を浪費しますって言ってるのと同じなんだよな。
一から孤児院建てるとか、赤字決定の慈善事業でしかないから。
レティシアもわかってて言い出さなかったんだろうし。
マジで領民が怒り出したらどうしよう。
でも――妻を喜ばせられるなら、たまにはそんな暴政愚政もいいだろうさ。
なんて自分で自分を納得させていると、レティシアは俺の腕に自らの腕を絡め、ギュッと抱き寄ってくる。
そんな彼女の表情は――さっきより少し綻んで見えた。
「……ありがとう、アルバン」
「どういたしまして」
しばし俺たちは、腕を組んで静かに町の中を歩く。
やっぱデートってのはこうでなきゃ、と思いつつ。
そうして、仲睦まじく通りを進んでいくと――なにやら人だかりが見えてきた。