私は幼い頃から――五歳の時から結婚相手が決まっていた。
お相手の名前はマウロ・ベルトーリ公爵。
子供の頃は「どんな方なんだろう」「素敵な方なのかな」と未来の旦那様に夢躍らせていたものだ。
かつて私にとって、結婚というのは希望に満ち溢れた言葉だったわ。
でも――現実は残酷だった。
マウロ公爵は、どうしようもなく愚かな男だった。
領地を預かる身でありながら政を蔑ろにし、街の女と遊び耽ってばかり。
私のことはバロウ家と繋がるための道具程度にしか思っておらず、女として見られたことは一度もない。
でも、それでも、彼は大事な夫だった。
幼い頃から「尽くすべき相手」と教えられてきた、大事な旦那様。
私は彼のために、三歩後ろを歩く女を演じ続けたわ。
けれど……失策で無数の領民を苦しめ、悪びれもしない態度を見ている内に、私の考えも変わっていった。
このままじゃ駄目だって。
私は身銭を切って露頭を彷徨う子供たちを保護し、出来る限り支援した。
でもお金なんてすぐになくなって、マウロに相談しても聞いてもらえなかった。
……だからリスクを承知で、私は悪事に手を染めたのだ。
こっそり領地の税を横領し、ベルトーリ家の資産にも手を出した。
全ては子供たち、領民、そしてマウロのためと思って。
それに、心のどこかで期待していたのかもしれない。
ここまですれば、もしかしたらマウロもわかってくれるのではないか?
……そんな、淡い期待を。
だけど――
『――レティシア・バロウよ! 貴様との婚約を解消する!』
あの舞踏会の夜……私の全ては壊された。
夢も、希望も、子供たちの未来も。
私の努力は全て無駄となったのだ。
私が幼い頃に夢見た光景は、完璧に踏みにじられたである。
悔しい――。
悔しくてたまらない――。
でも恨み言を言ってはならない。
リスクを理解した上で、それでも悪事を働いたのだから。
マウロが私の行いを歪曲し、婚約破棄の理由にしたこともわかってる。
正直、言い返したい気持ちで一杯だった。
でも、なにを言ったって言い訳にしかならない。
私はベルトーリ家を去り、バロウ家の汚点として流れに身を任せる他なかった。
そして――アルバン・オードラン男爵へ新たに嫁ぐと聞いた時、「ああ、これは罰なんだな」とすら思った。
貴族なら誰もが噂を聞く、あの傲慢で不遜で怠惰な、最低最悪の男爵。
その嫁にさせられる。
これは悪いことをした私への、神様からの罰。
”またマウロのような男の下へ行きなさい”
そういうメッセージだと思って、甘んじて受け入れた。
けれど、
『なんていうか、綺麗だなと思って』
アルバンは、私が抱いていたイメージとはまるで異なる男だった。
『俺とデートしよう』
『俺はこれを見せたかった。キミと俺の二人で守っていく土地だからな』
『なぁレティシア、この機会に自己紹介でもしないか?』
アルバンは――優しくて、積極的で、私を”一人の女”としてちゃんと見てくれた。
『キミは決して悪女なんかじゃないと、よくわかった』
……本当は、本当はどんなに嬉しかったことか。
私のことを理解しようとしてくれる。
私のことをちゃんと見てくれる。
私のことを信じようとしてくれる。
嬉しい。
とっても。
涙が出そうなくらい。
でも――ううん、だからこそ駄目なのだ。
落ちぶれてしまった私の人生に、彼を巻き込みたくない。
アルバンは優しいんだ。
もしも私の悪事の真相に気付いたら、どんな感情を抱いてしまうか。
アルバンを危険に晒したくない。
もう、もう嫌なの。
期待して、踏みにじられるのが。
なにかが壊れるのも、壊されるのも。
もう全部、嫌。
私は……どうしたらいいんだろう。
▲ ▲ ▲
――私がオードラン家に嫁いでから、十五日目の朝。
「……は?」
私はパンの断面にバターを塗る手を、ピタリと止めた。
テーブルの向かいにはアルバンが座り、なんとも呑気な顔でコーヒーをすすっている。
その後ろにはセーバスの姿も。
「今……なんと仰ったかしら?」
「”噂”を流したって言ったんだ」
彼はコーヒーカップを、白いソーサーにカチャリと置いた。
「”アルバン・オードランが、レティシア嬢の無念を晴らすべくマウロ公爵に復讐を企てている”――そんな噂をな」